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子育てエッセイ

松井るり子
  岐阜市生まれ。児童文化専攻。文筆業。暮らしや子ども、子育て、絵本についての著書多数。
 たおやかで独創的な目線から書かれた文章は、子育て中のお母さんをほがらかに励ましてくれます。
 この連載は、冊子「こどものまど2012年度」(鈴木出版刊)に掲載されたものです。

連載31 「心配事は親が持つ」

 この装丁、好きだなーと思う絵本の装丁家の名前を見ると、桂川潤さんだったということが、何度かありました。『あっ おちてくる ふってくる』(ジーン・ジオン/文 マーガレット・ブロイ・グレアム/絵 まさきるりこ/訳 あすなろ書房)もそうです(実は、先月ご紹介した『みるなのへや』も)。しっとりした紙の手触りも、ざらっとしたたまご色の見返しの紙も、文章も、絵も好きです。あまり好きなので、しょっちゅうは開かないように注意しています。開くときは、本を持つ喜びに満たされて読みます。文章も絵も詩のようで、奥行きのある絵を、一枚ずつゆっくり眺めていると、遠くに描かれたものに思いをはせて、ぼんやりしてしまうほどすてきです。
 花瓶からテーブルの上に、音もなく落ちてくる花びら。噴水から落ちてくる水。木から落ちるりんご。波の中に落ちていく砂のお城。落ち葉。雪。雨。ページをめくりながら、落ちてくる降ってくるもののことを考えていると、一方向にしか流れない、私たちの「持ち時間」について考えてしまいます。そしてふと、百人一首も思い出しました。
 
 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで 
 ふりゆくものは 我が身なりけり
          入道前太大臣(さきのにゅうどうだじょうだいじん)
 
 満開の桜の花びらが降りしきるのを見て、これは雪ではない、私自身なのだとさとった、昔偉かったおじいさん。豪華な生涯を送っただけに、老いのむなしさが身にしみます。
 
 花の色は 移りにけりな いたづらに
 我が身よにふる ながめせしまに
          小野小町(おののこまち)

 長雨が降って、桜の花びらが散って、色変わりするのをぼんやり眺めるように物思いしているうちに、私の若さも移ろってしまった。絶世の美女も、おばあさんになります。
 「ふる」という音から、雨や花びらが「降る」、年が「経る」、自分が「古」くなる意味のどれもが立ち上ってきます。

 この絵本も、文章を読み、絵を眺めていると、いろんな思いが喚起されます。さまざまなものが落ちてきて降ってきて…絵本の最後は、ある朝のワンシーンです。小さな男の子がいつものようにおとうさんと遊んでいます。おとうさんは、男の子を空中にぽーんと放り上げます。こんな遊びは日本にもありますね。男の子が「落ちる!」と思っても、大丈夫。おとうさんがしっかりと受け止めてくれたところで、絵本は終わります。

 時間の中をゆっくりと落ちていく私たちの「地面」がどこにあって、今いるところと、どれぐらい離れているかは、わかりません。
 2011年3月11日、私は茨城県つくば市の自宅にいました。震度6弱でした。掛け時計やグラスが落ちて割れ、金魚の水があふれ、揺れが何度も来るので、家の前の畑に避難していました。送電線の鉄塔のてっぺんから二回、火柱が立ちました。大きなお屋敷の屋根瓦が、ザラーっと落ちて割れました。私は自分の時間の「着地点」のそばまで来たのかなと思いました。同じ畑に出ていたご近所のちっちゃい子が、おばあちゃんにおんぶされて眠そうでした。お昼寝中だったとか。この子は怖さを感じていないんだろうな。いいなと思いました。
 心配ごとは自分が背負う代わりに、大人に持ってもらえるのが子どもだと、そのとき改めて思いました。いくら「自分より子どもがだいじ」と思う親でも、時間を止めてやることはできません。でも心配ごとを大人だけで持ちこたえて、子どもにはできるだけ安心させてやることや、ぽーんと放り上げて、しっかり受け止めてやることはできます。自分は空に同化するかと思うほど「ふわ」と浮かんで、それから落ちる向きに変わる瞬間があり、ほんとに落ちる、うれしくて怖くて、怖くてうれしい間、絶対に受け止めてもらえるという信頼だけは、揺らぐことがありません。僕は大丈夫だ! と確信できるこんな遊びが、「いつかは死ぬ。でもそれまではきっと大丈夫」という気持ちをはぐくむのではないでしょうか。花びらが降って、雨が降って、年経るごとに自分も古くなってゆく。それを変えることはできないけれど、きっと大丈夫。そして私たち生きる者全員が、時間軸の中を「おちてゆくふってゆく」のは、実はすてきなことなんだなーという思いが、この絵本から誘い出されます。哲学への入り口となるような絵本ですね。
<-完>
 

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